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目黒のさんまと
歌川広重の江戸名所百景「爺々が茶屋」
さんまと聞いて「目黒のさんま」が出てくる人は落語好き。さんまと、浮世絵師、歌川広重との関係は?
イラスト/イラスト工房ユニ
夏目漱石の当て字は「三馬」
空の色が青くスッキリしてくると、季節はもう秋。秋といえば、誰もが思い出すのは「さんま」です。
9月から11月にかけては全国各地で「さんま祭り」も開催されます。東京都目黒区の「目黒さんま祭り」、北海道根室市の「根室さんま祭り」、大阪府泉大津市の「泉大津さんま祭り」、宮城県気仙沼市の「気仙沼サンマフェスティバル」など。人気のイベントとしてマスコミも取り上げます。
「秋刀魚(さんま)」という当て字が使われはじめたのは明治の終わり頃です。 その前は、「三馬」という字も使われていました。明治の文豪 夏目漱石もさんまを好んで食べたのでしょう。著書『吾輩は猫である』の中に出てきます。三馬には、「さんまの滋養は、三馬力」というような意味があったようです。漱石は当て字が得意で、いろいろな当て字をつくっています。
日本でさんま漁がはじまったのは江戸初期の頃。房州沖で捕れたサンマに塩を振って傷みにくくし、日本橋魚河岸に運んでいました。庶民が口にしはじめたのは江戸中期頃ですが、武家の多くは、「下魚」とみなして、口にすることはなかったそうです。
目黒のさんまがおいしい理由とは?
「目黒のさんま」は、落語がきっかけで有名になりました。
目黒で口にしたさんまの味が忘れられない殿さまが、家来に命じて、さんまを取り寄せます。ところが家来たちには食べ方がわからない。脂ののった美味しいところをすべて取りのぞいてしまったため、さんま本来の味が失われてしまいます。
この、さんまはどこから取り寄せたのかと家来に聞くと、房州沖から取り寄せたと言います。それを聞いた殿さまが「やはり、さんまは目黒がおいしい」と言った、というお話です。
この話の元は、現在の目黒区三田2丁目あたりに、江戸時代の初めの頃にあった1軒の茶屋が関係しているのではないかとされています。徳川三代将軍、家光は鷹狩の帰りに、休息のために必ず立ち寄る茶屋の主人、百姓の彦四郎のことを「爺、爺」と呼んで、大層お気に入りでした。
茶屋は、いつの間にか、「爺々が茶屋」と呼ばれるようになり、徳川将軍は代々、その茶屋に立ち寄るのが恒例となったそうです。そんなところから、落語のさんまの話につながったのではないかといわれています。
歌川広重の『名所江戸百景』第84景「目黒爺々が茶屋」にも描かれている茶屋は、現在の旧茶屋坂(現 東京都目黒区三田2-11から14あたり)の頂上で、富士山を眺められる場所にあったそうです。
(文 編集部:水楢直見)