趣味や愉しみ

第1回 : ミュージック駄話 「Wasted Time」
レコーディング雑記 vol.1

1950年代生まれは、ロカビリー、ロックンロール、フォーク、ポップスと、音楽市場の黄金期とともに青春を過ごしてきました。そんな「音楽」を愛し続けた60オーバー世代に送る音楽コラム「Wasted Time」。竹内まりや独身期のマネージャーを務め、いまも音楽業界を見守る元ライブハウス店長・中島 睦さんによるミュージック駄話。

中島 睦

「レコーディング雑記 vol.1」

「J-POP」という言葉もない時代、日本の音楽制作者たちは「洋楽」に負けじと、良質な音楽をつくることに必死となっていました。そんな当時の奮闘ぶりを振り返っていただきました。

中島 睦

80年代のアメリカ・ロサンゼルスのスタジオ風景。大きなコンソールにはツマミやフェーダーなどが並ぶ/写真提供:中島 睦

1970年代末、僕はとあるフリーの音楽プロデューサーのアシスタントから、音楽業界のキャリアをスタートさせました。

それはマルチトラックレコーディングの録音機材と技術が日進月歩の中、アメリカが先行し、日本の音楽制作関係者とミュージシャン達が、その音楽のレヴェルを追随しようと日々努力していた時代の話となります。

僕が初めてレコーディングスタジオを訪れたのは76〜77年頃で、当時、池尻大橋にあった今は無きポリドールスタジオでした。

ポリドールレコード本社に併設されたスタジオは建物も立派で、三つあったスタジオのうち、1stはフルオケの編成が収容できる広さと高い天井がありました。

ポリドールスタジオは当時日本一の大きなスタジオで、1stのコントロールルームにはどでかいコンソールとアナログマルチレコーダーと各種エフェクターを収納した機材ラックが鎮座していました。

そんなRECスタジオは、足を踏み入れた瞬間に緊張せざるを得ない「音楽を生み出す仕事場」という雰囲気で、二十歳そこそこの僕は畏怖の念を感じざるを得なかったのです。

その頃、アナログ16chのレコーダーがようやく24chに移行する時期で、使えるトラック数に限りがある中、いかに良い演奏を良い音質で効率よく収録するのか、プロミュージシャン達と制作スタッフは、技術と、知力と、感性を磨く事を手探りで続けていたのです。

中島 睦

80年代のアメリカ・ロサンゼルスのスタジオ風景。右側には大きなテープ式レコーダーがみえる/写真提供:中島 睦

洋楽の良いミュージシャンの新譜が出ると、我先に買って聴き込み、そのサウンドやアレンジや音質を共有するのは当然の事でした。

仕事が終わって飲みに行くと話題のほとんどは最近出た洋楽アルバムと、必ず聴かなければならない欧米ミュージシャンのネタでした。もし、自分が聴いてなければ相手にされなかったのです。

やがて一気に24chアナログレコーダーが都内の各スタジオに普及を初め、トラックが8chも増えた事により、ピンポン用の2トラックの確保が楽になったと、エンジニアが喜んでいた時代へと続いていきます。

ピンポンと言うのは、例えばギターやコーラスなどをステレオで何本も重ねて録った多くのトラックを、別のトラックのLRにミックスして移し、それまで使ったトラックを消去して、新しく録音できるトラックを確保する作業の事です。

ピンポンをいずれ行うためには、エンジニアはその2トラックを取っておかねばならない訳です。

PCによる現代の無限トラックデジタルレコーディングでは考えられない、苦肉の策でした。

そんなレコーディングスタジオを6時間使用すると30万円近く、ミュージシャンのギャラ併せるとほぼその倍額が予算から消えていく事になるわけで、現場では全員が必死だったのです。

第2回:レコーディング雑記 vol.2に続く


■ Profile ■
中島 睦(なかじま・むつむ)
東京都出身。大学在学中に、音楽制作のアシスタントを始める。
竹内まりや独身期のマネージャーを務め、その後、音楽制作・コーディネイト会社に入社。松任谷由実、久保田利伸始め、数多くのコンサートコーディネイトを担当し、数十枚のCD音源制作ディレクション・プロデュースを手掛ける。またプロミュージシャン・アレンジャーのマネージャーなどを兼任。
2002年ライブバー、渋谷WastedTimeを立ち上げるが、2016年5月惜しまれつつ閉店。
現在はフリーランスで音楽制作プロデュース、ライブハウスのブッキング等を行っている。

中島 睦
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