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《シニア・シネマ・レポート Vol.12》 スノーマン原作者・ブリッグズの両親の激動の人生を 描く映画『エセルとアーネスト ふたりの物語』

いま、シニア世代をテーマにした映画が増えています。そこで、実際にシニア世代の人と一緒に鑑賞し、その作品の感想を語ってもらおうという企画です。同世代にしか語れない、シニア視点のちょっと変わった映画紹介コーナー《シニア・シネマ・レポート》。今回は「スノーマン」「風が吹くとき」などの名作で知られる絵本作家「レイモンド・ブリッグズ」の作品を、シニア世代である筆者自ら試写し、ご紹介したいと思います。世界で愛されてきた数々の絵本を精力的に生み出してきたブリッグズの、あの優しい感性はいったいどこから生まれたものなのか……。それを紐解くためにもぜひ鑑賞して頂きたいのが、この「エセルとアーネスト ふたりの物語」という映画。手作り感覚溢れるレトロタッチのアニメーション作品の見どころなどをご紹介していきます。

© Ethel & Ernest Productions Limited, Melusine Productions S.A., The British Film Institute and Ffilm Cymru Wales CBC 2016

1928年から1971年まで、駆け抜けた43年の物語。

エセルとアーネスト……これは「レイモンド・ブリッグズ」の母と父の名前。この両親の半生について描いた同タイトルの傑作絵本(英国ブックアワード受賞)が存在していますが、これを題材にキャラクターに命を吹き込み、今回アニメーションとして映画化したのが本作品となります。

描かれているのは、第二次世界大戦前から戦中・戦後のロンドン。それも特別な人々の話ではなく、「ママとパパは普通の人だった。その人生も普通だった。」と、映画の冒頭でブリッグズ本人が語っている通り、普通の人々の身の丈に合ったささやかな暮らしが描かれています。
父のアーネストは牛乳配達人。そして母のエセルは上流階級の家に住み込みでで働くメイド。このふたりが出逢うのが1928年ですが、仲良くあの世へ旅立つ1971年までの40年間を、この物語では感動的に描いています。
ヒトラーの台頭から第二次世界大戦の勃発。チェンバレンからチャーチルへの首相交代。ロンドン空爆と防空壕での窮屈な暮らし。そして戦後の時代の変化とアポロ11号の月着陸など、激動の時代を背景にごく普通の夫婦のつましい生活ぶりに、ぜひご注目ください。

© Ethel & Ernest Productions Limited, Melusine Productions S.A., The British Film Institute and Ffilm Cymru Wales CBC 2016

声の出演は、英国の名優ブレンダ・ブレッシンが母のエセル役を。また父アーネストをジム・ブロードベントが。ブリッグズ本人役をルーク・トレッダウェイが演じています。
また圧巻のエンディング曲は、ビートルズのポール・マッカートニーが、このアニメーション作品のために特別に書き下ろした作品です。 労働者階級のイギリス庶民の暮らしぶりを知る上でも貴重な作品である、この「エセルとアーネスト ふたりの物語」を、ぜひ鑑賞して頂きたいと思います。

映画『エセルとアーネスト ふたりの物語』予告編 / © Ethel & Ernest Productions Limited, Melusine Productions S.A., The British Film Institute and Ffilm Cymru Wales CBC 2016

◆あらすじ◆
1928年のロンドン。牛乳配達人のアーネストとメイドのエセルはある日出逢い・恋に落ちる。そしてめでたく結婚したふたりは、ウィンブルドンにある小さなテラスハウスで生活を始める。その後ふたりは最愛の息子レイモンドを授かる。
第二次世界大戦という苦難の日々を送りつつ、レイモンドの成長を見守るふたり。どんな時も寄り添い、ほがらかに笑い合うことを忘れなかった。そして戦後の経済発展が進むなか、ひそかに忍び寄る老いと人生の終焉……でも、エセルの横には、常に夫アーネストの姿があった。

© Ethel & Ernest Productions Limited, Melusine Productions S.A., The British Film Institute and Ffilm Cymru Wales CBC 2016

英国庶民の暮らしが、精緻に描かれた作品。

戦前の1928年から、戦後の1971年までのイギリス労働者階級の普通の生活を、こだわりを持って描いたこの作品では、その生活風習を含め日本人にはなかなか理解できない細かなディティールも精緻に表現されています。ここではレイモンド・ブリッグズの作品「おぢさんThe Man」を日本語に翻訳された、国文学者で作家の「林望先生」にお話を伺いながら、当時のロンドンでの生活などをご紹介していきたいと思います。
※以下ネタバレがございます。ご注意してお読みください。

林望氏(右)の講演会風景(撮影/オフィスADON)

司会者:林先生。この度はご登壇ありがとうございます。先生がご覧になった感想として、この映画の見どころなどをお話しいただければと思います。

林:イギリスと言うと、すぐにガーデニングとか貴族の館とか、そういうものばかりが取り上げられますが、でもそれはイギリスのほんの一面に過ぎない。ブリッグズさんが描きたかったのは、三段重ねのアフタヌーンティーの世界観ではなくて、むしろ普通の英国庶民の普通な生活です。

冒頭のシーンに出てくるあの茶色いティーポットは、今でも英国人が普通に使っているもので、おそらくあの中には丸いティーパックが入っているはずです。これもこの映画が普通の英国人の暮らしを描いているということの表れではないでしょうか。

平凡な生活のなかにこそ、真実の人生がある。

ブリッグズさんは、平々凡々たる庶民の生活を描きたかったのだと思います。大金持ちに憧れたり、一流の大学を出てエリートを目指すなんて、どうでもいいこと。ごく普通の普段着の生活の中にこそ、真実の人生があるのではないかと問いかけてくださいます。

最初のシーンは、ブリッグズさんがミルクティーを作るために、牛乳瓶の蓋を開けティーカップにミルクを注ぎまた蓋を閉めるというもの。象徴的なシーンですが、ああいう常温で牛乳を放置する習慣は日本にはありません。僕がイギリスで暮らしていたのは1984年~1987年ですが、この映画の描写とほとんど変わっておらず、英国人の日常を感じました。また映画のなかで主人公のアーネストが牛乳を配るために、専用の電気自動車を運転していますが、僕が英国滞在中に日常的に見ていた光景もまったく同じでした。

© Ethel & Ernest Productions Limited, Melusine Productions S.A., The British Film Institute and Ffilm Cymru Wales CBC 2016

セリフひとつで英国の階級意識が垣間見える。

些細なことですが、アアーネストが独身時代に住んでいた実家は、おそらく18世紀の建物で、石炭の煤で壁は真っ黒。前の道は荷馬車の馬糞だらけで、ロンドンでも最下層の貧民街だと思われます。またこの街で語られる言葉は、いわゆるコックニーなまりと呼ばれる労働者の英語で、こういう部分にもさりげないこだわりを感じます。

それに比べるとエセルの実家は1900年代にできた煉瓦造りのテラスハウスで、比較的新しい新興住宅地。だから彼女は、自分のことを夫より上流だと思っているふしがあります。また彼女はメイドという仕事にもプライドを持っていて「私は小間使いではない。レディメイドなのよ」と、自ら中産階級の出だということを自慢します。でもお茶のことをティーではなく、“テイ”と発音してしまうあたり、彼女自身も労働者階級の出だということがバレてしまい、思わずニッコリしてしまいます。そしてこういうディティールひとつひとつにこだわり、手間を惜しまずていねいに制作しているクリエイターたちの姿勢に、感心している自分がいます。

隅々にまでこだわって作られた大人の絵本。

ここはちょっとネタバレになるかもしれませんが……アーネストがはじめて手に入れたマイカーは、トライアンフのヘラルドという当時の最新式の車で、この車で彼らは初ドライブに出かけます。その行先は、両側に生垣が続いている田舎のワインディングロード。イギリスではありふれたこの風景ですが、英国人はきっとこの田舎道に郷愁を覚えるのだろうと私は思いました。

また後に息子のレイモンドが結婚して、イングランド南部のサウスダウンズという丘陵地帯に新居を構えますが、多くの英国人はあの観光案内にも出てこないような田園風景をとても愛していて、それが細かく美しく描かれていてちょっと嬉しくなりました。

© Ethel & Ernest Productions Limited, Melusine Productions S.A., The British Film Institute and Ffilm Cymru Wales CBC 2016

神は細部に宿ると言いますが、どうでもいい様なことを隅々まで細かく描写しているという点が、この作品の凄いところです。またこの映画にはナレーションが一切ありません。普通だったら「 それから10年が過ぎ 」などの台詞が入るのですが、すべての時間の経緯や出来事を映画のなかのシーンだけで理解させています。我々日本人には分かり辛い場面もありますが、当時のイギリスを知っている庶民には、懐かしさを覚えるものばかりだと思います。

きわどい表現も多々あるこの作品は、子供向けに作られたものではなく、大人の絵本という趣を感じさせてくれるものです。そして「本物の文学は日常に宿る」という、ブリッグズさんからのメッセージが、この作品には込められているように感じました。この文学をあなたも2度3度とご覧になって、平凡であることの素晴らしさを噛みしめて頂きたいと思います。 本日は皆さん、ご清聴ありがとうございました。

林望氏(撮影/ オフィス ADON)
■Profile■ 
林 望(作家・国文学者)

1949年 東京生まれ。ケンブリッジ大学客員教授、東京藝術大学助教授等を歴任。専門は日本書誌学・国文学。1984年から87年にかけて、日本古典籍の書誌学的調査研究のためイギリスに滞在、その時の経験からエッセイ『イギリスはおいしい』(平凡社)で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。イギリスにまつわるエッセイには、ほかに『イギリスは愉快だ』(平凡社)『林望のイギリス観察辞典』(平凡社)など。2004年、レイモンド・ブリッグズ作品『おぢさん  The Man』(小学館)を翻訳。そのほか『謹訳 源氏物語』(祥伝社)で毎日出版文化賞特別賞、『謹訳 平家物語』(祥伝社)など古典文学の謹訳はじめ、エッセイ、小説、歌曲の詩作、能楽など幅広く執筆。食をテーマにした著書も『旬菜膳語』(文春文庫)『リンボウ先生の〝超〟低脂肪なる生活』(日経ビジネス人文庫)など多数。

【取材・文】
吉村裕之:1958年東京・中野生まれ。20代の頃よりストリートスナップに目覚め、本業の広告制作の傍ら、これまでにモノクローム写真を中心に個展を6回開催する。JAGDA(日本グラフィックデザイナー協会)正会員。


『エセルとアーネスト ふたりの物語』


9月28日(土)より岩波ホールほか全国順次ロードショー

監督:ロジャー・メインウッド
声の出演:ブレンダ・ブレッシン/ジム・ブロードベント/ルーク・トレッダウェイ
原作:レイモンド・ブリッグズ (バベルプレス刊)
エンディング曲:ポール・マッカートニー「In The Blink of An Eye」
配給:チャイルド・フィルム/ムヴィオラ
2016年作品/上映時間94分/カラー作品/ドルビー・デジタル/ヴィスタサイズ/イギリス・ルクセンブルク

■シニア・シネマ・レポート バックナンバー
《Vol.01》『輝ける人生』《Vol.02》『ガンジスに還る』《Vol.03》『十年 Ten Years Japan』《Vol.04》『葡萄畑に帰ろう』《Vol.05》『天才作家の妻』《Vol.06》『バイス』《Vol.07》『僕たちのラストステージ』《Vol.08》『パリ、嘘つきな恋』/ 
《Vol.09》 『家族にサルーテ!イスキア島は大騒動』 /《Vol.10》『アンドレア・ボチェッリ 奇跡のテノール』/《Vol.11》『 英雄は嘘がお好き』

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